新 寝たり起きたりすわったり

元々は『猪名川タイムズ』サイトに連載してたエッセイを『はてなダイアリー』で継ぎ、『はてなブログ』に移行させた間賀凜のエッセイ。タイトルはサトウハチロー先生のエッセイ『見たり聞いたり試したり』のパロディ。

第16回 Twitter、音頭用アカウント設置の為の私感的な能書きと決意 (2020年7月12日と2023年6月4日 共に日曜日)

てな訳で、元来の活動のアカウントと、江州音頭取りのアカウントを分けました。

 

きっかけは最初の演芸の師匠の嘉門タツオ師匠に「政治と宗教の事は芸人は言うたらアカン」と若かりし頃に言われ、一昨日(7月10日 金曜日)、実家に帰った折に、ウチの師匠夫妻と会った事がキッカケでした。

 

以前、在籍してた頃は、入門当時は直弟子が上に七人居ました。すぐに一人諸事情で抜けられ、六番弟子になり、約七年の修行期間を経て、休会時は直弟子としては二番に上がりました。

 

少し先輩に当たる同期は弟子になりませんでしたが、二人、太鼓とギターの鳴り物がいました。

 

前出の三人と唯千代母を含む叔父叔母弟子らが所属。師匠と同門の唯龍、唯光両師匠がレギュラーゲストでした。

 

よく、二班体制で櫓とかやったことも思い出深いです。師匠が掛け持ちの場合は、当時は主任(舞台監督。唯光師匠か唯清先生)が居て、仕事を分け振られた弟子っ子たちはガムシャラにいくつもの仕事を兼業して動いて進行をしたものです。

 

意外と自分は十代から二十代前半に掛けて、付き人とか食堂運営の経験があったので、とても楽勝に想えてたんで、入門前から進行とかをイヤイヤやってたんで、それがおそらく、『御三家』と呼ぶ、唯清先生と唯正兄と唯玉兄の叔父弟子に誘われた原因のひとつだと想います。

 

入門直後には第一音楽監督が唯英、第二音楽監督が唯由里、で第三音楽監督が僭越ながら私…と師匠に指名されてイヤイヤ就任しましたが、歯に衣着せぬ協議を続けて叔父叔母兄弟弟子たちとも仲良くなりました。

 

で、ベースにチョッパー奏法を江州音頭界で初めて取り入れたのが、私だと、他会派の数名の御先生に打ち上げや二年目の櫓から、少しずつながら御指摘いただいた事があります。自分の中では今までの音楽歴の延長でやってたに過ぎなかったのですが…。

 

あとふたつ入会の理由があって、小学生の頃から漠然と漫才師になりたかったとの想い。

 

初めて稽古場の萱島駅近くの下神田公民館に行き見学下時に親世代の方々が、

 

「なにを言ってるのかわからない歌(江州音頭)に情熱を傾けてるのが、滑稽に想えて、ひと夏だけするんなら良いか…」

 

と想って興味を持った点と、

 

子供の頃から30歳まで、特撮、アニメ、映画やドラマのサウンドトラック(劇伴)、歌謡曲、流行歌、ナツメロ、ジャズ、マニアックな音楽、ロックなどなどの音楽を聴いてきて、フッと音楽を一回転して全部聴き尽くした気分になったと想ったのです。

 

そしたら、自分の生まれ育った土地に、こんな理解不能の摩訶不思議な音楽(近代民謡。成立はこの時点で150年弱)に触れたのは少し刺激的にも想いましたが、まさか、入門当初はここまで長年するとは想いもしませんでした。

 

お話は前後致しますが、そもそも、そのベーシスト兼キーボードとして郷土芸術江州音頭 桜川唯丸会に加入するキッカケは、行きつけの門真団地ショッピングセンター内にて営業されてた『お好み焼き 栄一』の三谷栄一大将と、師匠の奥様が知人で、

 

「楽器演奏者を募集してるで!ギャラも出るそうやわ!」

 

と言われての紹介でした。

 

初めて昨年までの稽古場である下神田公民館に足を運んだのは、1997年7月17日木曜日の事で、その数日後の19(土)~21(月)に初めてベースギターを演奏しますが、最初の約束ではキーボードで参りました。その日はベースは持って行かなかったのか、持って行ったのかは記憶しておりません。

 

で、入門の数年後に行き着けの京阪大和田駅前にて営業されてた『消費税を取らない百円ショップ』の大将が恐れ多くも初代桜川唯丸師匠(御大)と知り、知己を賜り、僭越ながら、当時、御大が始められたばかりのパソコンをお教えする事になり、以後、拙いながら、元々昭和歌謡ほか演芸や劇画趣味のホームページを運営していたことから、御大の御依頼で『初代桜川唯丸ホームページ』を企画編集。

 

同時期に『郷土芸術江州音頭 桜川唯丸会ホームページ』を唯稔、唯英両兄と共に企画運営することとなりました。編集は自分が担当し、企画と技術面は両兄がしてくれました。

 

御大のサイトはコンテンツは縮小されましたが現在も見れます。

 

最初の桜川唯丸ホームページは2004年に休会と同時に速攻で締めました。

 

コンテンツは元々やってた『演芸とナツメロ猪名川タイムズ』で得たノウハウを移植して、かなり、好評で手応えがあったことを記憶していますが、本当は一番踊り子さん方が気になる、『会員紹介ページ』を作りませんでした。

 

櫓では度々踊り子さん方に質問されておりましたので、唯稔、唯英と議論しました。

 

というのも、実は当時、叔父叔母兄弟弟子が運営途中に休会や脱退したり、入会者がすぐに脱退したりと、とても混乱した時期であり、前出の協議の結果、作りたかったけれど作れなかったのが真相です。

 

で、結局、2004年に休会する訳ですが、この年までに兄弟子三人が諸事情で退会。

 

中でも、2001年でしたか、直弟子の惣領弟子としての自覚が出て来た唯和兄が退会されたのが特にダメージでした。

 

あと、楽器演奏者と音頭取りの狭間にたたされて1999年と2001年に師匠と揉めて、二年間、楽器を触らなかった時期もあります。これは、実は今も軽減されたものの、この当時のモヤモヤした気分は残っています。

 

で、表向き(真相は話せない)は、他会派で大叔父にあたる師匠に酔った勢いでクダを巻いた事がキッカケで破門…ではなく休会するに至りました。

 

振り返ってみると本来ならばキャッチーで若い方々の耳に届く、御大の願いを継承したかった事から起こった若気の至りから出た発言であります。

 

とても、死ぬほど悔しくて悔しくてたまりませんでしたが、音頭好きなのに退会せねばならない理不尽な事情に納得も出来なかったながら、もう、音頭をする気もサラサラ無かったので、衣装と資料を惜しいとも想わすザクザクと処分しました。

 

ですが、退会後も、唯正兄と唯清先生と唯玉兄には伴奏と音楽監督と司会者としてで呼んで下さったり、御大も引き続きブレーンとしてのお付き合いはしていただいてたのですが、この頃自暴自棄になり、別に江州音頭を取りたいとも想わす、皆様方とは、あまり、この時期、江州音頭の話は、どちらからともなく話す、という感じでした。

 

その後、ようやく江州音頭が懐かしくなり、退会して数年後、勝手に音頭を音楽、もしくはダンスとして捉えて櫓周りをする様になります。

 

が、ここで斜に構えて客観的に音頭界を眺めていたところ、踊り子のとび喜代姉さんとたこさんと大輪会の皆様方と櫓でお会いする機会も増えて

 

「くっさん!踊ろや!」

 

と言われて、踊りの輪に加わる事となります。そしたら、見えなかった踊り子さん方の視点でも櫓を観ることが出来る様になり、思いがけずに嬉しい発見をしました。

 

が、一方では、いやらしい芸人感覚なのか、ほぼ他人に話さないながら「自分ならこういう構成にするのに」とか考えてしまう様になりました。

 

その後、2008年の四月に大好きだった解散したファンクバンド『南蛮渡来 じゃがたら』のイベントが梅田のシャングリラであり、そこであうんさん・すうじぃや『盆踊りの本』の共同著者のイラストレーターで漫画家のチャンキー松本先生と知り合います。

 

で、同年のゴールデンウイークに初めて大阪梅田駅前の大歩道橋でストリートライブを始めた時に偶々というか必然的に、ライブ終了後のあうんさん・すうじぃとお仲間の方々が通り、その時にすうじぃもなにか数曲唄ってくれて、酒盛りというか、彼らにとっては打ち上げの延長を夜明け前までやりました。

 

で、その時にすうじぃがJR東寝屋川駅付近の出身で自分も京阪香里園駅付近で出生したことや、マニアック趣味の話題で盛り上がったのです。

 

最初は『じゃがたらイベント』で観たすうじぃに『ロックンロールの至宝』というキャッチフレーズを付け、客としてすうじぃのライブに参加。

 

会ってる内にお互いに話し合ってて、彼が江州・河内音頭好きと知り、彼のバンド『あうんさん・すうじぃグループ(略称 ASG)』に誘われて一年半、サイドギタリストとベーシスト兼業で四年ぶりに江州音頭を取る様になります。

 

同年の七月にすうじぃを通じて十三のライブハウスのクラブウォーターで開かれた音頭イベントに唯丸会のゲスト伴奏者だったギタリストのカオリーニョ藤原さんと姉弟子の唯由里(あのゆかり)の斡旋で同イベントに出演して、ライブハウスで初めて江州音頭を取りました。

 

そのすうじぃグループ参加で『アーガイル』のギタリストのカズボーン・コックス、ベーシストで門真市立第四中学校の二期先輩のMr.ターキー、気鋭のソロシンガーの奇妙礼太郎氏の率いる『ザ・アニメーションズ』のドラマーのKTR、忘れちゃならない『じゃがたらイベント』のプロデューサーで『ホットヒップトランポリンスクール』のバーカッションの奥地潤といった、音は聴いたり、聴かなかったりながら評判は知ってた関西ファンクのバンドの人びとと演奏を重ねて知己を得ます。

 

ですが、誠に遺憾ながらすうじぃグループ参加後一年半で、他のメンバーと揉めて脱退します。が、そのメンバーとは後に仲直りをして現在に至っております。大なり小なりターキー先輩以外の他のメンバーとも変わらない友誼は続いております。

 

で、現在もすうじぃとは共に江州・河内音頭の節付けと踊りなどの研究を続け、また、自分にとっては音頭に関する伴奏者と、自分よりも豊富な知識を持つ心強いブレーンとして接してもらえてます。

 

さて、『あうんさん・すうじぃグループ』脱退後不思議な事に、唯清グループの営業がまわりだしたり、別の複数のバンドに参加したり、ソロ活動したり、それなりに音楽的に充実してきて、2011年に一シーズンだけ、小学校一年生からブレーンを勉めて、初めて組んだバンドのメンバーで漫才を初めて組んだ相方の飯塚銀次が亡くなり、その追悼の意味も込めて、1999年にインターネットで知り合い、以来、現在も御交誼いただいております六代目歌亀=三代目吾妻家安丸師匠に御願いして『亀一流安丸会』にゲスト出演させて頂きますが、自分が江州音頭を舐めていたかも知れない事に気が付き反省して落ち込みます。

 

で、すうじぃの紹介で『釜ヶ崎寄ってきまつり』にバンドで出演して、プロデューサーズの仙石兄や菓子屋兄や、出演者の砂布均兄や町豪太兄などの御歴々と知己を賜ります。

 

同時期にすうじぃグループで出演した北区浪花町の『ビューティーバー』の泉ユウ子ママ(後の久保田酒造蔵元夫人)の紹介で知己を得た『喜久盛酒造』の五代目蔵元の藤村卓也氏と『因果者兄弟』というユニットの活動を開始したり、mixiでひんでん高橋秀樹兄と知り合い、魔ゼルな規犬氏やsyadoooo氏やTASKE氏や廃寺ゆー子(成真至時)氏も参加していた東京に本拠を置いたアングラパフォーマンスユニットの『一点のあいまいさも許さない。さすがロゴス』に進行と司会者として参加して、表現を模索する事となりました。

 

2014年までは出来ることをこなす、をモットーに勉めますが、自分も真剣にしない飛び込まない粗忽者のせいか、活動も自分から動けなくなります。

 

2015年春に、先に独立された唯正兄さんから連絡を受けて「復帰せえ!」と言われますが断ります。

 

しかも、独立と同時に名前も改名されてたので、「へ!?」と唖然としました 。

 

その間、二度ほど会って話をして固辞しましたが、結果、なにもする事がなかったのと、顔触れも変わらない気心知れた面子で、11年ぶりに戻ってもええかな?と何気なく思い立ち、復帰する事になりました。

 

会には唯清先生に2009年に入門し、自分も度々演奏者を勉めてた旧知の唯幸&唯岐美両姉が唯丸会に合流してましたし、その前年には産休で休会する予定の唯由里姉の代打として、その妹の唯祥姉が17年ぶりに復帰してました。

 

前の休会時(2004年)は唯由里姉に継いで直弟子としては二番弟子でしたが、五番弟子として戻る事になりました。

 

昨夏に桜川カレーライスから芸名を桜川龍虎(さくらがわ・りゅうこ 二代目唯丸命名)に改めた龍虎兄は、唯龍師匠惣領弟子のレギュラーゲストなので従兄弟弟子にあたります。

 

もう1人忘れてはならないゲストミュージシャンの李庸恩さん(ウンちゃん)を忘れては行けません。

 

彼は私が復帰する2年前から唯由里の紹介で唯丸会のギタリストとして参加する京都在住のプロ・ベースシスト兼プロデューサーで、2014年の南部市民文化センターの櫓で知り合い、以後、唯丸会になくてはならない存在となりました。

 

以後、現在(2023年)に至るまで、唯由里同様良き相棒として、二代目唯丸音頭の音を継承して新たに共に作っています。

 

私が彼と仲良くなったきっかけは同世代なのと、彼が奥様も共に参加していた、名古屋のアンクラの巨匠でなぞなぞ商会を率いて、東京ロッカーズと遠からず近からずの関係を続けた故遠藤豆千代さんが京都に本拠地を移して結成した『豆異℃(マーメイド?🧜‍♀️)』のメンバーであり、また、私の初めて組んだコミックバンド『横之内玄造&士農工商(1979年結成。プロデューサーはジェームス・ザキミヤ)』の練習曲『すんまへん』『あさおきたら~』の巨匠で、ちょっと絶縁中の小林万里子姉さん(鷲尾悠志郎先生には絶縁されとらん…と思う)のベースを長年担当していて、友達になった時に彼の経歴を調べたら、小便ちびるぐらいの実績のあるミュージシャンで恐れおののいたけれど、今や、『二代目桜川唯丸バンド』の四人目の寡黙な音楽監督として活躍してくださっています。

 

今年の春先にあうんさん・すうじぃとベースとギターを交代しようかと考えて、その旨を伝えると、すごく怒られたんで、今後とも下拙がベースと師匠の太鼓🥁することが既に決定しています✌️

 

さて、この文章がどれぐらいの方々の目に触れるかわかりませんが、とにかくある意味の決意と振り返って反省の意味も含めまして書いてみた次第に御座います。

 

長々と書きましたが、最後までお読みいただきありがとう御座います。

 

まあ、この先、どうしようか無理をせずに、身の丈にあったことを続けていきたいと私個人は想いますので、不束者ですが何卒宜しく御教授御鞭撻の程を宜しく御願い申し上げます。

 

(了)