新 寝たり起きたりすわったり

元々は『猪名川タイムズ』サイトに連載してたエッセイを『はてなダイアリー』で継ぎ、『はてなブログ』に移行させた間賀凜のエッセイ。タイトルはサトウハチロー先生のエッセイ『見たり聞いたり試したり』のパロディ。

第19回 追悼 M.S社長(少し前の話を 2020年9月9日 水曜日)

この3月18日水曜日に二年半働いたリサイクル関係の仕事を退職した。

 

35年前、自分が産まれて始めて勤めたホテル跡地の近辺にあり、二年半の間に自分では頑張ったつもりなのに、昇給は無かった。4度ほど仕事中に命の危険にさらされたのに昇給もなかった。生まれて初めて心神耗弱と体調不良を起こして休んだ会社でもあった。

 

しかも、7月下旬から3月に退職して今頃、生まれて初めて失業後の後処理が一気にやってきては困っている。

 

ま、どうにか、微々たる貯金で喰ってた自分も悪いが、離職票やその他諸々の書類一式も申請しないと送って来なかったし、資格手当も残業手当もなく、昨年の10月何度目かの直談判をした時に社長から

 

「あなたの言い値は定年まで出せません。そんなに大口叩くならば、給料の高い所に移り、退職してもらっても構いません!」

 

と、言われてモチベーションが一気にダダ下がった。

 

自分としては倉庫屋と葬儀屋に並ぶ老舗だったのに、家庭的な会社だった割には、一番、金(勤務形態に関する賃金)に関して大雑把でよろしくなく、事後の後処理は

 

『もう退職しはったからウチとは関係おまへん!』

 

という、ある意味老舗で、ある意味ブラック会社だったと想う。

 

アルバイトでも正社員でも金に汚くない会社は信用出来るが、金に汚い会社は信用出来ないし、潰れたり、存在してても大幅に企業規模が縮小されてる事が多い。

 

金にきれいでも人間関係とか、仕事が合わなくて退職する場合もある。

 

===== 

 

ただし、社長は年齢も近く、人間的にはウマの合う人だった。

 

その社長が8月9日 日曜日に脳卒中で数え56歳、満54歳で亡くなられた。

 

その10日ほど前(7月28日)に離職票の事で電話したのが最後の会話だった。 

 

そういえば、8月11日火曜日にCメールを送ったのに、既読が付いてなかった。従来ならば気付けば返事を返してくれるので「オカシイ…」と想ってはいたが…。

 

 

この間、もう一度電話してはっきりと判明した。

 

実は8月18日火曜日に前会社に電話した時に、二度目の離職票の催促の時に話した同世代の事務方君に訊いていて、彼は自分の在籍当時はおちゃらけたギャグ的な会話の軽口仲間だったので

 

「いつもの調子でコイツまた吹いとるんやろう!」

 

とか想ったが、いくらギャグだとしてもそんな事を話すはずもなく、今回、別の女性事務方に訊いて本当だと知り、会社に恨みつらみはあるが、涙は出ない物のとても寂しかった。

 

 

社長は父が若かりし頃に聴講生として休日(平日)に通った某大学出身で化学者の江戸っ子(生まれ育ちは神奈川県川崎市→東京都練馬区)だったが、縁あって大阪の会社を継ぐことになられた方。

 

東京の親しかった某友人が生まれ育った地域と社長の育たれた街が少し離れた地域だったので、二人から各々、共通するランドマーク施設の話を訊くと、各々様々な共通点を見いだし、三十路まで持ってた東京への憧れと不思議な地縁を感じずにはいられなかった。

 

ミュージシャンとか演芸関係ではない、私的には初めて知った東京のシンボル的な人物だった。

 

 

他の公私に渡る師匠・先輩方や兄弟姉妹弟子や後輩らといった自分と上下関係を考えると、あまりにも短期間ながら、正反対の人だったから、あまり影響は受けてない…、けど、それ故にとても印象に残り、自分に取っては社長というより、兄貴、といった存在のひとりだったのかも知れない。

 

 

自分としても女性事務方から訊いて訃報を確信した時に

 

「自分が辞めたことも原因のひとつやったのかも…」

 

などと、厚かましくも想った。

 

 

とても、パワフルで様々なその業界の複数の組合の役員を勉められていた。

 

自社のホームページやSNS(facebookInstagram)を活用したり、とても、勉強熱心な方で暗中模索で会社を盛り上げ様と努力もされていた。

 

社長と会話した事を、記憶してるだけ思い出してみる。

 

「給料上げてください!」と何度も直談判した時の会話や、各種茶話会での愉快な会話などなど。

 

 

が、社長を思い出してみいて、ハタと気付いた事があった。

 

それは、彼がその会社に於いて、勤めだして以降、自分に嘘を付いていた人だったのかも知れない。社長になって数え6年目の出来事だった。

 

自分もその会社に勤めてた時、同じ様な気持ちで勤務していた。

 

『付くはずの残業・職務・資格手当一切は付かないけど、この会社に居ればその内にどうにかなって生きる事が出来るたろう』

 

などと想ったが、諸々の事情で不可能なのがわかり、先の発言である。

 

そりゃ、王様と下僕ほどの社内カースト制度はあるが、もしも、自分が社長だったらを考えると、

 

「これだけ、粉骨砕身でやってても社員に還元出来ないのも理解出来るし、自分だったら、もう少し企業規模を縮小してユルく運営する」

 

という物だったが、その様に出来なかったのは、元来持つ彼自身の合理性と、大阪人の持つ柔軟性や大阪商人がよく話している『老舗故の暖簾』(故茂木草介がドラマで活写した世界に近い世界観)が相容れることが出来ず、ストレスを結果溜めてしまったのではなかったろうか?。

 

 

もう、心の中では黒歴史にするはずの会社だった。

 

が、社に対する愛着は歴代勤務会社に比べるとべらぼうに低い方なのに、こんな事が起こってしまうと、忘れられなくなってしまうやん…。

 

今でも、その会社のサイトを観ると図らずも遺影となってしまったが、社長が今でも満面の笑顔で挨拶してる。

 

面接の時は、ワザと表情を殺していたけど、後に馴れてきて仕事以外の話をすると、やはり、写真みたいな満面の笑顔で答えてくれた。

 

なんか、その笑顔見てたら泣かないけどホロッとしてしまった。

 

 

毎年、恒例の忘年会と昨年4月の花見、昨年10月の支社を代表して出た、今、取り壊し中の桜橋ボウルで開催されたボーリング大会と11月の社員旅行が図らずも思い出となってしまった。

 

子供3人も19歳を頭に15歳と5歳とバリエーションに飛んで子宝にも恵まれてたのに…。余談ながら子供たちは自分が初中退した幼稚園(私は卒園してたら92期生)の大後輩たちだ。

 

自分も数え15歳で実母と離れたので気持ちはわかるが兄弟がたくさんいるからうらやましく想い、反面会社も動産も沢山ある会社なので、お金の心配も無いだろう。10年後その会社がもしもあれは、血族会社としての歴史を重ねるだろう。

 

ブラック企業なんだけど。

 

 

そういえば、ここの会社って初代も50代で万博の年(昭和45=1970年)に逝去されてる。因果応報なのか?。

 

振り返れば、自分が35年前に勤めたホテルは、勤務シフトに体調が合わせられず、ホテル勤務が出来なかったので、支店の桜橋の支店勤務となり、未成年だったが、夜遅くまで勤務していた。昼前に家を出て、終電で帰宅していた。

 

そんな私的地縁の因果もあったのかも知れない。

 

 

さて、余談ばかりで恐縮するが、今日は奇しくも社長の月命日にあたり、また、来週は御存命ならば社長の55歳の誕生日だった…。

 

社長、結果、裏切ってしまってすみませんでした…。

 

そんなM.S社長もとい兄さんに弔意を示します…。

 

ありがとうございました。

御合掌…礼拝…。

 

(了。尚、会社名は変な辞め方したんで出しません)