ついさっき、テレビを見ていたら、ガラパゴス島に生息するガラパゴスゾウガメの亜種(独立種とする説もあり)、ピンタゾウガメ(Geochelone nigra abingdoni)の最後の生き残りだったロンサム・ジョージ翁が亡くなっている状態で発見され、保護された40年前から推定された1910(明治43)年生まれの推定100歳前後の長い一期を終えた、と言うニュースをしていた。
つまり、ピンタゾウガメが絶滅した、と言うことらしい。
それを自己のコメントを許されているニュースキャスターたちが「残念で仕方ないですね」と口々に言ってはいるんだが、それを聴いて、
「お前がそのジョージ翁の立場やったらどないするねん」
としか言えなかった。
というのも、今後、おそらくジョージ翁の御遺体は解剖等の学術調査を受けることになると思われるが、多分、甲羅を分析したらもっと長命だったりして…f(^。^;)。
でも、最後の種として生きると言うことは、わが国では国鳥である鴇(トキ)も絶滅危惧種だなあ、などと感慨にひたりながら、プラネットチャンネルで放映されそうな海外ドキュメンタリーで、彼を主人公にした映像作品があれば、たぶんジョージの声は大滝秀治さんとか、さいかち柳二(レレレのおじさん)さんとか肝付兼太(スネ夫、二代目目ん玉つながりとイヤミ、車掌)さんが演ずるんだろう。
大昔からのSF作品は、その辺の答えは出ているし、輪廻転生的に捉えて見ればものすごく些細なことだし、種の保存というのは、人間と呼ばれる一動物に過ぎない生き物ののエゴとも捉える事が出来る。
大して、当の本人(ジョージ)は人間が悲しんだ弔意は理解しているだろうが、
「まあ、生き物だから仕方ないんじゃよ、みんな…悲しまないでおくれや…f(^。^;)」
と黄泉の国とやらで、今頃つぶやいているんだと私には思えて仕方が無い。
私自身も個人的に訃の報せを聴いた時に、「彼の立場だったらどうしよう」とか「一期にお疲れ様でした」ウルウルと目頭が刹那熱くはなったのだが、
「うちの母型の祖父とか塩まさる先生とほぼ同世代だから仕方が無いと言えば仕方が無いなあ…。シーラカンスみたく、またほとぼりがさめたら、ジョージ翁と同じピンタゾウガメが発見されたら、また勝手なロンサムナンタラとか名前付けちゃうんだろうなあ…。これもエゴだな…。
でも、知り合いとか友達の亀がいたと思うんで、そんなに寂しくはなかったんじゃないの?」
とか、身勝手で畏れながらハッと思えたのだ。
そういえば、手塚治虫先生の「火の鳥」の鳳凰編でも、主人公茜丸が亀から次の生き物に転生する描写があったなあ…。
とにかく、私の祖父母と同世代のピンタゾウガメジョージ翁に
「命の大先輩としてお疲れ様で御座いました。
また転生されるまでしばしお休み下さいませ
と言う言葉を若輩ではあるけれども贈りたいと思う…。
御合掌、礼拝…
(2012年6月25日月曜日 記)
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この記事を書いてから早くも六年経った。ジョージ翁は死後に内臓は標本とされ、現在住んでいた動物園のショーケースから静かに剥製と変身されながらも世の中と人々を御見守りくださっているとNHKの『海外ニュース』でその御姿を拝見した。
動物の剥製はOKで、何故人間の剥製は作られないのか!?。
レーニンとか毛沢東は人工血液などを使用して生前の姿で今も寝ておられるけども、理由は簡単。偶像崇拝とかに繋がり、なにかと大人の事情が幾重にも重なり合ってて複雑だからだろう。
(2018年12月18日 追補)
(了)