新 寝たり起きたりすわったり

元々は『猪名川タイムズ』サイトに連載してたエッセイを『はてなダイアリー』で継ぎ、『はてなブログ』に移行させた間賀凜のエッセイ。タイトルはサトウハチロー先生のエッセイ『見たり聞いたり試したり』のパロディ。

第18回 Twitterに想うなんやらかんやら (2020.7.20 月曜日)

短めのお話をひとつ。

 

Twitter始めた10年前、AV情報誌『DMM』(現FANZA。以前はモザイクが薄くてDVD二枚組の700円の本と現行の300円のがあった)の高い本に何人かのAV嬢がTwitter始めたと書いてあり、全員フォロー返ししてくれて、よく御返事を下さったのが懐かしい。

 

10年経って、今も同じアカウントを使ってるのはAVは引退した写真家・デザイナーの大塚咲嬢と、趣旨が合わなくなったのでこちらからフォローしなくなった風間ゆみ嬢ぐらいだろう。芹沢恋嬢は最初の頃はよく御返事ももらえたけど、興味も無くなってしまったのか、合わなかったのかすぐにTwitterしなくなった。

 

時が過ぎ、恐らくフォロワーの人数が多いのは『大喜利親方』こと深田えいみ嬢の136万人!。

 

平均的なファンの多いキカタン(企画単体の略。正式な芸名を持つが、別名でも作品に出たりする、AV界では有名な嬢を指す言葉)女優だと1万人前後。たぶん、このランクの女優が一番人数的にも多い。

 

エース(A)級だと1万人以上で仲間入り出来るけど、このクラスだと平均3万人~15万人のフォロワー。

 

AVを引退すると、激減するけども、そんなに急激に激減する事は無いので、ファンも見守りたい気持ちがあるのだろう。

 

AV嬢のみならず、芸能全般の人気商売の人気のバロメーターと言っても差し障りないだろうな。

 

そんな感じで、同じ様に自分も昭和歌謡とか関西演芸史などの歴史を調べる(研究などとはおこがましい)趣味を持つので、まれに極少数の同好の士とやり取りする事もあるんだが、やはり、ここでも人物の消息が話題になる。

 

有名歌手、作詞家、作曲家、俳優、映画監督、脚本家、作家などなどを日夜調べたりする。

 

確かに現在は30年に差し掛かろうかというネット社会ではあるが、あらかたの事は解っても、それを掘り下げる知識は、とどのつまりは、以前と変わらず、本をたくさん読んだり、音源聴いたり、映画とかテレビ観たりして、文章に起こして、精査したり、推理しないと、性質はかなり多岐に渡るけど、肝心な知りたいことが解らないなんて事が多い。

 

ネットのヤバさはWikipediaを読んで、あらかたの事はわかるけど、あのWikipediaですら低レベルな編集合戦があったりするんで、信頼性は6-7割ぐらいなので乏しく、あれを読んで深く理解出来たとは、全記事レベルでいうと、恐らく言えないだろうな。

 

話は横道に逸れたけど、つまり、ファンにとっては消息は知りたいのは当たり前であるけど、意図的な諸事情で消息絶ったりするのは、人が生きている世間では仕方が無いのだろう。

 

残念ながら。

 

(了)

 

第17回 『またまた勤務中に事故って?しまった!』 (2018年12月5日(水曜日)のこと。12月18日 火曜日、2020年7月14日 火曜日)

この前日(12月4日 火曜日)に、最近、自分の日記と各種tweetとかに輝乃丞、新田(デラックス)宗男同様に頻繁に登場する、梅田新道『モエラド』の広瀬菜々ママの幼なじみのベーシストでドラマーながら、なんでか、間賀の以前の生業の兄弟子でもある『祝 トマホーク・カズマ!いよいよ五十路突入祝い記念式典』(自分も昨年の夏に『祝 まがちゃん!いよいよ五十路突入!出来る範囲でテンションは下げてね記念式典』をしてもらった御礼返しの意味も含む)を我々の地元たる京阪守口市駅前周辺で行い、彼も自分も深夜まで明くる日の生業勤務が早いのに食事カラオケ食事と行った。

 

で、帰宅。

 

少しの仮眠して生業に向かった途中に携帯電話が無いことに気がつき、会社に来てから、慌ててタブレットに切り替えて、電話出来ないけど幸いラインしてるのでそちらで繋がる人々とやり取り。仕事終わりに前日に立ち寄った店々に赴く事を決定して、通常通り勤務していた。

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第16回 Twitter、音頭用アカウント設置の為の私感的な能書きと決意 (2020年7月12日と2023年6月4日 共に日曜日)

てな訳で、元来の活動のアカウントと、江州音頭取りのアカウントを分けました。

 

きっかけは最初の演芸の師匠の嘉門タツオ師匠に「政治と宗教の事は芸人は言うたらアカン」と若かりし頃に言われ、一昨日(7月10日 金曜日)、実家に帰った折に、ウチの師匠夫妻と会った事がキッカケでした。

 

以前、在籍してた頃は、入門当時は直弟子が上に七人居ました。すぐに一人諸事情で抜けられ、六番弟子になり、約七年の修行期間を経て、休会時は直弟子としては二番に上がりました。

 

少し先輩に当たる同期は弟子になりませんでしたが、二人、太鼓とギターの鳴り物がいました。

 

前出の三人と唯千代母を含む叔父叔母弟子らが所属。師匠と同門の唯龍、唯光両師匠がレギュラーゲストでした。

 

よく、二班体制で櫓とかやったことも思い出深いです。師匠が掛け持ちの場合は、当時は主任(舞台監督。唯光師匠か唯清先生)が居て、仕事を分け振られた弟子っ子たちはガムシャラにいくつもの仕事を兼業して動いて進行をしたものです。

 

意外と自分は十代から二十代前半に掛けて、付き人とか食堂運営の経験があったので、とても楽勝に想えてたんで、入門前から進行とかをイヤイヤやってたんで、それがおそらく、『御三家』と呼ぶ、唯清先生と唯正兄と唯玉兄の叔父弟子に誘われた原因のひとつだと想います。

 

入門直後には第一音楽監督が唯英、第二音楽監督が唯由里、で第三音楽監督が僭越ながら私…と師匠に指名されてイヤイヤ就任しましたが、歯に衣着せぬ協議を続けて叔父叔母兄弟弟子たちとも仲良くなりました。

 

で、ベースにチョッパー奏法を江州音頭界で初めて取り入れたのが、私だと、他会派の数名の御先生に打ち上げや二年目の櫓から、少しずつながら御指摘いただいた事があります。自分の中では今までの音楽歴の延長でやってたに過ぎなかったのですが…。

 

あとふたつ入会の理由があって、小学生の頃から漠然と漫才師になりたかったとの想い。

 

初めて稽古場の萱島駅近くの下神田公民館に行き見学下時に親世代の方々が、

 

「なにを言ってるのかわからない歌(江州音頭)に情熱を傾けてるのが、滑稽に想えて、ひと夏だけするんなら良いか…」

 

と想って興味を持った点と、

 

子供の頃から30歳まで、特撮、アニメ、映画やドラマのサウンドトラック(劇伴)、歌謡曲、流行歌、ナツメロ、ジャズ、マニアックな音楽、ロックなどなどの音楽を聴いてきて、フッと音楽を一回転して全部聴き尽くした気分になったと想ったのです。

 

そしたら、自分の生まれ育った土地に、こんな理解不能の摩訶不思議な音楽(近代民謡。成立はこの時点で150年弱)に触れたのは少し刺激的にも想いましたが、まさか、入門当初はここまで長年するとは想いもしませんでした。

 

お話は前後致しますが、そもそも、そのベーシスト兼キーボードとして郷土芸術江州音頭 桜川唯丸会に加入するキッカケは、行きつけの門真団地ショッピングセンター内にて営業されてた『お好み焼き 栄一』の三谷栄一大将と、師匠の奥様が知人で、

 

「楽器演奏者を募集してるで!ギャラも出るそうやわ!」

 

と言われての紹介でした。

 

初めて昨年までの稽古場である下神田公民館に足を運んだのは、1997年7月17日木曜日の事で、その数日後の19(土)~21(月)に初めてベースギターを演奏しますが、最初の約束ではキーボードで参りました。その日はベースは持って行かなかったのか、持って行ったのかは記憶しておりません。

 

で、入門の数年後に行き着けの京阪大和田駅前にて営業されてた『消費税を取らない百円ショップ』の大将が恐れ多くも初代桜川唯丸師匠(御大)と知り、知己を賜り、僭越ながら、当時、御大が始められたばかりのパソコンをお教えする事になり、以後、拙いながら、元々昭和歌謡ほか演芸や劇画趣味のホームページを運営していたことから、御大の御依頼で『初代桜川唯丸ホームページ』を企画編集。

 

同時期に『郷土芸術江州音頭 桜川唯丸会ホームページ』を唯稔、唯英両兄と共に企画運営することとなりました。編集は自分が担当し、企画と技術面は両兄がしてくれました。

 

御大のサイトはコンテンツは縮小されましたが現在も見れます。

 

最初の桜川唯丸ホームページは2004年に休会と同時に速攻で締めました。

 

コンテンツは元々やってた『演芸とナツメロ猪名川タイムズ』で得たノウハウを移植して、かなり、好評で手応えがあったことを記憶していますが、本当は一番踊り子さん方が気になる、『会員紹介ページ』を作りませんでした。

 

櫓では度々踊り子さん方に質問されておりましたので、唯稔、唯英と議論しました。

 

というのも、実は当時、叔父叔母兄弟弟子が運営途中に休会や脱退したり、入会者がすぐに脱退したりと、とても混乱した時期であり、前出の協議の結果、作りたかったけれど作れなかったのが真相です。

 

で、結局、2004年に休会する訳ですが、この年までに兄弟子三人が諸事情で退会。

 

中でも、2001年でしたか、直弟子の惣領弟子としての自覚が出て来た唯和兄が退会されたのが特にダメージでした。

 

あと、楽器演奏者と音頭取りの狭間にたたされて1999年と2001年に師匠と揉めて、二年間、楽器を触らなかった時期もあります。これは、実は今も軽減されたものの、この当時のモヤモヤした気分は残っています。

 

で、表向き(真相は話せない)は、他会派で大叔父にあたる師匠に酔った勢いでクダを巻いた事がキッカケで破門…ではなく休会するに至りました。

 

振り返ってみると本来ならばキャッチーで若い方々の耳に届く、御大の願いを継承したかった事から起こった若気の至りから出た発言であります。

 

とても、死ぬほど悔しくて悔しくてたまりませんでしたが、音頭好きなのに退会せねばならない理不尽な事情に納得も出来なかったながら、もう、音頭をする気もサラサラ無かったので、衣装と資料を惜しいとも想わすザクザクと処分しました。

 

ですが、退会後も、唯正兄と唯清先生と唯玉兄には伴奏と音楽監督と司会者としてで呼んで下さったり、御大も引き続きブレーンとしてのお付き合いはしていただいてたのですが、この頃自暴自棄になり、別に江州音頭を取りたいとも想わす、皆様方とは、あまり、この時期、江州音頭の話は、どちらからともなく話す、という感じでした。

 

その後、ようやく江州音頭が懐かしくなり、退会して数年後、勝手に音頭を音楽、もしくはダンスとして捉えて櫓周りをする様になります。

 

が、ここで斜に構えて客観的に音頭界を眺めていたところ、踊り子のとび喜代姉さんとたこさんと大輪会の皆様方と櫓でお会いする機会も増えて

 

「くっさん!踊ろや!」

 

と言われて、踊りの輪に加わる事となります。そしたら、見えなかった踊り子さん方の視点でも櫓を観ることが出来る様になり、思いがけずに嬉しい発見をしました。

 

が、一方では、いやらしい芸人感覚なのか、ほぼ他人に話さないながら「自分ならこういう構成にするのに」とか考えてしまう様になりました。

 

その後、2008年の四月に大好きだった解散したファンクバンド『南蛮渡来 じゃがたら』のイベントが梅田のシャングリラであり、そこであうんさん・すうじぃや『盆踊りの本』の共同著者のイラストレーターで漫画家のチャンキー松本先生と知り合います。

 

で、同年のゴールデンウイークに初めて大阪梅田駅前の大歩道橋でストリートライブを始めた時に偶々というか必然的に、ライブ終了後のあうんさん・すうじぃとお仲間の方々が通り、その時にすうじぃもなにか数曲唄ってくれて、酒盛りというか、彼らにとっては打ち上げの延長を夜明け前までやりました。

 

で、その時にすうじぃがJR東寝屋川駅付近の出身で自分も京阪香里園駅付近で出生したことや、マニアック趣味の話題で盛り上がったのです。

 

最初は『じゃがたらイベント』で観たすうじぃに『ロックンロールの至宝』というキャッチフレーズを付け、客としてすうじぃのライブに参加。

 

会ってる内にお互いに話し合ってて、彼が江州・河内音頭好きと知り、彼のバンド『あうんさん・すうじぃグループ(略称 ASG)』に誘われて一年半、サイドギタリストとベーシスト兼業で四年ぶりに江州音頭を取る様になります。

 

同年の七月にすうじぃを通じて十三のライブハウスのクラブウォーターで開かれた音頭イベントに唯丸会のゲスト伴奏者だったギタリストのカオリーニョ藤原さんと姉弟子の唯由里(あのゆかり)の斡旋で同イベントに出演して、ライブハウスで初めて江州音頭を取りました。

 

そのすうじぃグループ参加で『アーガイル』のギタリストのカズボーン・コックス、ベーシストで門真市立第四中学校の二期先輩のMr.ターキー、気鋭のソロシンガーの奇妙礼太郎氏の率いる『ザ・アニメーションズ』のドラマーのKTR、忘れちゃならない『じゃがたらイベント』のプロデューサーで『ホットヒップトランポリンスクール』のバーカッションの奥地潤といった、音は聴いたり、聴かなかったりながら評判は知ってた関西ファンクのバンドの人びとと演奏を重ねて知己を得ます。

 

ですが、誠に遺憾ながらすうじぃグループ参加後一年半で、他のメンバーと揉めて脱退します。が、そのメンバーとは後に仲直りをして現在に至っております。大なり小なりターキー先輩以外の他のメンバーとも変わらない友誼は続いております。

 

で、現在もすうじぃとは共に江州・河内音頭の節付けと踊りなどの研究を続け、また、自分にとっては音頭に関する伴奏者と、自分よりも豊富な知識を持つ心強いブレーンとして接してもらえてます。

 

さて、『あうんさん・すうじぃグループ』脱退後不思議な事に、唯清グループの営業がまわりだしたり、別の複数のバンドに参加したり、ソロ活動したり、それなりに音楽的に充実してきて、2011年に一シーズンだけ、小学校一年生からブレーンを勉めて、初めて組んだバンドのメンバーで漫才を初めて組んだ相方の飯塚銀次が亡くなり、その追悼の意味も込めて、1999年にインターネットで知り合い、以来、現在も御交誼いただいております六代目歌亀=三代目吾妻家安丸師匠に御願いして『亀一流安丸会』にゲスト出演させて頂きますが、自分が江州音頭を舐めていたかも知れない事に気が付き反省して落ち込みます。

 

で、すうじぃの紹介で『釜ヶ崎寄ってきまつり』にバンドで出演して、プロデューサーズの仙石兄や菓子屋兄や、出演者の砂布均兄や町豪太兄などの御歴々と知己を賜ります。

 

同時期にすうじぃグループで出演した北区浪花町の『ビューティーバー』の泉ユウ子ママ(後の久保田酒造蔵元夫人)の紹介で知己を得た『喜久盛酒造』の五代目蔵元の藤村卓也氏と『因果者兄弟』というユニットの活動を開始したり、mixiでひんでん高橋秀樹兄と知り合い、魔ゼルな規犬氏やsyadoooo氏やTASKE氏や廃寺ゆー子(成真至時)氏も参加していた東京に本拠を置いたアングラパフォーマンスユニットの『一点のあいまいさも許さない。さすがロゴス』に進行と司会者として参加して、表現を模索する事となりました。

 

2014年までは出来ることをこなす、をモットーに勉めますが、自分も真剣にしない飛び込まない粗忽者のせいか、活動も自分から動けなくなります。

 

2015年春に、先に独立された唯正兄さんから連絡を受けて「復帰せえ!」と言われますが断ります。

 

しかも、独立と同時に名前も改名されてたので、「へ!?」と唖然としました 。

 

その間、二度ほど会って話をして固辞しましたが、結果、なにもする事がなかったのと、顔触れも変わらない気心知れた面子で、11年ぶりに戻ってもええかな?と何気なく思い立ち、復帰する事になりました。

 

会には唯清先生に2009年に入門し、自分も度々演奏者を勉めてた旧知の唯幸&唯岐美両姉が唯丸会に合流してましたし、その前年には産休で休会する予定の唯由里姉の代打として、その妹の唯祥姉が17年ぶりに復帰してました。

 

前の休会時(2004年)は唯由里姉に継いで直弟子としては二番弟子でしたが、五番弟子として戻る事になりました。

 

昨夏に桜川カレーライスから芸名を桜川龍虎(さくらがわ・りゅうこ 二代目唯丸命名)に改めた龍虎兄は、唯龍師匠惣領弟子のレギュラーゲストなので従兄弟弟子にあたります。

 

もう1人忘れてはならないゲストミュージシャンの李庸恩さん(ウンちゃん)を忘れては行けません。

 

彼は私が復帰する2年前から唯由里の紹介で唯丸会のギタリストとして参加する京都在住のプロ・ベースシスト兼プロデューサーで、2014年の南部市民文化センターの櫓で知り合い、以後、唯丸会になくてはならない存在となりました。

 

以後、現在(2023年)に至るまで、唯由里同様良き相棒として、二代目唯丸音頭の音を継承して新たに共に作っています。

 

私が彼と仲良くなったきっかけは同世代なのと、彼が奥様も共に参加していた、名古屋のアンクラの巨匠でなぞなぞ商会を率いて、東京ロッカーズと遠からず近からずの関係を続けた故遠藤豆千代さんが京都に本拠地を移して結成した『豆異℃(マーメイド?🧜‍♀️)』のメンバーであり、また、私の初めて組んだコミックバンド『横之内玄造&士農工商(1979年結成。プロデューサーはジェームス・ザキミヤ)』の練習曲『すんまへん』『あさおきたら~』の巨匠で、ちょっと絶縁中の小林万里子姉さん(鷲尾悠志郎先生には絶縁されとらん…と思う)のベースを長年担当していて、友達になった時に彼の経歴を調べたら、小便ちびるぐらいの実績のあるミュージシャンで恐れおののいたけれど、今や、『二代目桜川唯丸バンド』の四人目の寡黙な音楽監督として活躍してくださっています。

 

今年の春先にあうんさん・すうじぃとベースとギターを交代しようかと考えて、その旨を伝えると、すごく怒られたんで、今後とも下拙がベースと師匠の太鼓🥁することが既に決定しています✌️

 

さて、この文章がどれぐらいの方々の目に触れるかわかりませんが、とにかくある意味の決意と振り返って反省の意味も含めまして書いてみた次第に御座います。

 

長々と書きましたが、最後までお読みいただきありがとう御座います。

 

まあ、この先、どうしようか無理をせずに、身の丈にあったことを続けていきたいと私個人は想いますので、不束者ですが何卒宜しく御教授御鞭撻の程を宜しく御願い申し上げます。

 

(了)

第15回 最近、自主制作映画界が元気良い!(2018.10.12 金曜日)

最近、巷では『自主制作映画』がゾンビホラースラップステックコメディー映画『カメラを止めるな!』(2017年 上田慎一郎監督 ENBUゼミナール製作 東宝配給)が大ヒットしているらしい。

 

この映画をコネで観ることになった有名監督や著名人らが観てみると「オモロい!٩(๑>∀<๑)۶」と思い、自分の身の回りの人々にコソッと話したらば、その有名無名を問わない人々が「オモロい!٩(๑>∀<๑)۶」と言って、まずはSNSで拡散し、みるみるうちに口コミが広がり、この映画を観たタレントやDJたちが「オモロい!٩(๑>∀<๑)۶」と言うに至り、遂には大手映画会社でここ数年に渡り、

日本映画会社で『シン・ゴジラ』とか『ドラえもんシリーズ』などやアニメ『ジブリ映画』や『君の名は。』などで躍進を続ける、東宝の配給で公開されることになったという、『自主制作映画のわらしべ長者的広がり』を見せて、2018年10月現在も異例尽くしのロングラン上映中の映画。

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第13回 勤務中に事故ってしまう (2018 0831 金曜日~0927 木曜日)

2018年8月30日木曜日の朝10時半頃のこと、生業として勤務しているリサイクル工場での構内作業中に事故に遭った。

 

実はこの会社は明治18年(1885年)創業というから、私が勤務してきた会社の中でも、大阪三菱倉庫内旭菱倉庫(明治初期/前身の中谷運輸は明治中期)、西口共栄社(1913=大正3年)と同様に老舗の会社と言えるんだろう。

 

業務内容は印刷屋さんから籠パレットと呼ばれる金属製のパレットに入れられて入荷する、印刷済みの裁断された印刷物(パンフレット、ポスター、小冊子など)の余白部分を紙の種類別に選別して、ベーラーという大型圧縮機械のベルトコンベアに入れて行くという仕事(別にこれだけではなく、間もなく約一年経とうとしているがまだまだ未熟者だ)で、この時はこの作業を続けていた。

 

で、選別が終了した空いた籠パレットを四段に重ねて、フォークリフトで移動して、所定の位置に置いて、再びトラックに載せて工場に戻って行くんだが、その籠パレットの一番下の枠が全てグラグラに外れていた為に、移動の際にバランスを崩して落ちて来た。

 

崩れ始めた瞬間にかねがね御世話になってる、フォークリフトを操縦する同工場のM工場長や、共に作業しているT先輩(師匠)がベルトコンベア内で作業して選別している私に向かって有り得ないぐらいの大声で

 

「まがちゃん!危ない逃げろ!逃げろ!」

 

と、急に叫んだんで、

 

「なにかいな?」

 

と思い声のする正面を向くと、先に書いた四段パレットがこちらに向かって崩れて来て、下から三段目に直撃する位置で、ひさびさに『死』を意識して、前に逃げたが、この時に身を挺したT兄貴がけどばしてくれたおかげで、幸い一番上のパレットが左後頭部に直撃し、久しぶりに『目から星が出る』経験をして、ベーラーから上がってからうずくまり、

 

「ま、大丈夫やろう…」

 

と思い、なんかわからない状況だったので、静かにしていると、今度は二人が

 

「血!血!」

 

と叫び、工場長はT先輩に止血するために寄り場(事務所)からタオルを取ってくるように指示し、患部がわからない中、タオルを取ってきた先輩が抑えてくださる位置を緩く抑えて、パッと見ると、大量の血が流れていたが、

 

「またかよ…」

 

とつぶやいた。

 

というのも、以前、飲食店で雇われ店長をしていた時に酔客にビール瓶で頭を割られたり(検査なし)、倉庫構内での作業中に木製パレット上の商品(白物家電)が崩れて足を直撃(労災)したり、また、現在の家に越してきた十年前にペティナイフ包丁が足の上に落ちて、床が血みどろになった(自然治癒させたった!)、などの経験があったので上の様なつぶやきをしてしまった次第。この手の話はまだまだあるけど自慢がましく聞こえたらばアカンのでクワバラクワバラカズオ(桑原和男)…。

 

取り敢えず、先輩が介助してくれつつ寄り場兼事務所に歩き、物凄く冷静に自分の携帯電話から119番に連絡している私を見ながら、気を遣いながらも驚愕される工場長とT兄貴(師匠)。

 

こちとら、18歳になったその日からの一人暮らし!(故上村一夫先生大好きなので但し、『愛の暮らし…同棲時代』は除く)なので、もう、初体験ではなく、電話してから三分で無事に勤務先に来てくださったのは、消防署がバカ近くだったことが幸いし、間賀凜史上最速の3分20秒でやってきた。

 

で、程なく工場のねき(根来)の大阪府東大阪市の某川病院(仮名)に救急車で搬送された車中、救急隊員が頭を包帯をぐるぐる巻いて止血してくれた。

 


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救急隊員と病院の男性看護士に促され、私はCTスキャンダル…紀…CTスキャンで頭部と全身に異常が無いかレントゲン写真を撮ってもらい、ようやく診察室に通され、脳外科医に説明を受け確認して、5cmに渡って裂けた頭部の傷を縫ってもらう。

 

現代は昔の様に手縫いではなく、直径2~3mmホッチキスで止めて行く。初体験なのでワクワクしたので痛みはさほど感じないながら、頭蓋骨を打つ度に『コツン』と音がする瞬間はそれなりの痛みが全身を貫いたが…。

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第12回『オウム真理教死刑執行によせて~我が信仰遍歴』

昨日(2018年7月6日 金曜日)午前中、1995年に首都圏で起きた『オウム真理教サリンテロ』ほかでおなじみの麻原彰晃率いるオウム真理教の死刑囚たちが七人が一斉に処刑された。

 

自分とオウム真理教との出会いは、父の再婚(1986年5月中旬)と密接な関係がある。というのも、実家では父とその再婚相手の義母(y子 2016年5月30日 月曜日 死去)が東京の蒲田に本部を置く、弱小新興宗教の会員であり、自分が19歳~20歳に掛けて、彼らによって執拗な勧誘を受けて心は疲弊していった。

 

父と義母から手渡される彼らの信仰の場で教祖と呼ばれる人物が書いたとされる、テキスト本を数冊読んだモノの、どこかの別の既成宗教のパクリ的な話しの羅列と、心の琴線にまったく響かない、オモロない話の連続で、すぐに放り出して、自分が間違ってるかも知れないと、心配になり、面白がって、故飯塚銀次と中村田隆一や当時師事していたレイモンド山下師匠や当時の同僚の方々にもそれらの本を読ませると、自分同様に

 

「緩くて、軽くてリアリティに欠け、説得力は無くて宗教としては余りにも稚拙過ぎる。美輪明宏の発言の方が強く説得力がある」

 

と言われ、自分の想いと、余り変わらない感想を持った。読んでから30年経った2018年現在でもこれらのテキスト本が教材として読まれ続けているのは溜息しか出ない。

 

余談ながら仕事の為に、葬儀屋社長でブルース歌手の金子マリさんも元キャンディーズの故田中好子さん(スーちゃん)も一時期会員であり、キャンディーズ末期から入信していたというスーちゃんは教祖に「不倫はお止めなさい。幸せになれないから…」と言われて、即座に退会して夏目雅子の兄と略奪婚みたいな形で結婚したが、「教祖さまの言いつけを守らなかったから子供が出来なかったんや !」などとうそぶく義母の発言に十数年後にイラついた事を深く記憶している。

 

ま、とにかく、その会はアホみたいなので、違う宗教を自分もやろうと試み、天理教創価学会などなどの信仰を勉強したが、なんかどれも嘘臭くて、自分の求める信仰観に合致する信仰は皆無だと結論付けることになるのだが、後に仕事の関係でPL教団に帰依すること(2007-08年)に成ったが、ここでも幻滅してしまった。PLランド跡地とPLの塔に三十年ぶりに訪れたことと、PLの花火大会をかぶりつきで見れて、その際に後の大リーガーの前田健太選手がルーキーのまだ身体が出来てない時に握手出来たのは珍しい思い出となったのは付け加えておこう。

 

そんな二十歳ぐらいの頃に、タウン誌の『プレイガイドジャーナル(ぷがじゃ)』か『Lマガジン』のどちらかに、『オウム神仙の会』の体験講演がSABホールであるとの広告を目にして、古代人みたいな装束と髪型の日本武尊とかを意識したスタイルの麻原彰晃が、なんとも神々しく見えて

 

「あ!これかも!。自分の求めていた信仰って。おお!ヨガもある!レインボーマンや!」

 

と喜んでみて、当時師事していた山下師匠にこのイベントに行きたいというと、

 

「なにを眠たいこと言うてんねん。日曜と祝日は稼ぎ時やど!何のために月に8-10日ライブ行く為に早退けされたってんねん!」

 

と言われて諦めた。

 

この時、執着してオウムに入ってたらば、ひょっとしたら、昨日、自分も処刑された…否、もっと前に仲間内リンチで処刑された。かも知れない。

 

人間の分岐点はかなり時間が経過してから、「あの時、こうしてれば、または、ああしなければ、今頃はこんなに苦労してないのに…」と年齢を重ねる毎に思う様になった。

 

その後、昭和から平成になる時期にオウムは『別冊宝島』で宗教学者の島田裕己が体験修業してオウムの世間的知名度アップに貢献し、それを面白がって秋元康とんねるずが『生でダラダラいかして!』(日本テレビ)にゲストで呼んだり、『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)では、新宗教の論客のひとりとして熱弁を奮う麻原を宗教人ではなく、「マスコミが紹介して世間が面白がってる人のひとり」として見ていた。

 

だが、なにを勘違いしたのか麻原は、お金も集まり、兼ねてからの麻原の夢だった政界進出を果たすための選挙に出て、自信たっぷりで『当選宣言』を語っていたが、上の事情であっさり落選。で、松本サリン事件と地下鉄サリン事件を起こすって、一角の人物がすることじゃないと思うし、この事件のおかげで大小の新興宗教が全部カルトと見られてしまう事態が起こった。

 

 我が家ではまだ両親が栃木県の先に書いた、新興宗教の職員として生活をしてたので、この事件について幸いにも意見を交わす事は無かったものの、自分と父の兄弟からは同じ様にカルトとして見られてしまう始末。

 

あと、新興宗教の常套手段である後出しジャンケン的な

 

ベルリンの壁が無くなったのは、一生懸命に在ドイツの信者さんがお水取り(という、御神水という彼らに取ってはありがたい水)を撒いて平和を祈念したから!』

 

と会報に掲載しちゃう大人げなさは大爆笑のネタとなる。

 

それと、新興宗教も思想の世界も

 

『たくさんの周囲の人たちを会員にして、その数が多ければ多いほど出世する』

 

ということを発見してから、宗教活動と思想活動は一切してないながら、葬儀師に成って以降、色んな新興宗教を体験してかじってみる新興宗教活動は継続中であり、現在もいくつかの信仰の幽霊会員は続けている。安心して欲しいのは、自分は誰かを誘う事は必ずやらない。それは自分自身が若い頃に無遠慮な方法で父と義母に彼らが信仰する新興宗教の入会を執拗に迫られたからであることはひとこと言って記しておこう。そもそも、葬儀師になった理由のひとつに「両親を宗教観で論破する」ということで、素養もあったのか、数ヶ月後には父も義母も論破出来たのは、そもそも彼らの信仰観が浅くて薄いモノだからだったからだろう。でも、そんな信仰に父と義母は支えられて、救われたのは真実なんだから、「ま、いっか。他人事だしね!」で済ませる事がようやく出来る様になったのは葬儀師として生きる事が出来たからである。

 

葬儀に数多く携わる事に両親や親戚で帰依している人たちをようやく理解出来る様になったのはいうまでもない。

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さて、オウムの場合は特殊なのかと言えばそうでもない。もし、二十歳の自分が入信していて、麻原を『尊師』と呼ぶほどに帰依していれば、それは私自身に限らず、誰しもがサリン事件に加担していたかも知れない。

 

千石イエス氏も前出の家の両親が帰依してた教祖も有名大手新興宗教の教祖や会長と呼ばれる幾星霜の人々も置き換えれば尊師と呼べるだろう。

 

私的には生業でのレイモンド山下(コック時代1985-92)、レイモンド福本(フォークリフトオペレーター時代 1990-97)、故バカボン岡野(葬儀屋時代 2002-17)の各師匠と芸の上での嘉門、三井(1983-から飛び飛び)、二代目唯丸、唯清、唯正(辺高正)1997-、初代唯丸1999-と故庄内斉2008-15、各師匠がこれにあたるが、その師事していた時期の、のめり込んでる時に、その指示を受ければ鉄砲玉になることは、恥ずかしい話、幾度か在ったんだが、その度に尻拭いをして下さったのは上の方々であり、上の順番は生業と芸の区別はしてるものの、師事した順番通りである。

 

あと、庄内師匠や御大(初代唯丸)に繋いで頂いたり、自分で勝手に繋いだ先生方もいるが、余りに多すぎるので割愛するが、誰がカバやねんロックンロールショーとヒカシューRCサクセションを聴いてコミックバンドを率いた事はまったく無駄では無かった事も一言付け加えておこう。

 

明らかに三井兄貴師匠の率いた『ITACHI!!!』(TOPSに非ず)は自分の日本のロックンロールを深く聴くきっかけとなり、江州音頭会入会の端的な最初の出来事だと振り返り思えるのは、取り敢えずやってきて無駄ではなかった、と言えよう。

 

面白くて、特筆して於かなければ成らないのは上の師匠方の殆どがどちらかと言えば無神論者であり、また、彼らはそれなりにその個々の世界で人望のあった、またはある方々というのも、上の方々が人として生きる自分の道を教えてくれたリアルな師匠方である。

 

音頭の世界は比較的に閉鎖的であり、自分は他会派の師匠方、お弟子方とは殆ど交流が出来ない…ことはないが、これは、そういう風に二代目唯丸会で躾られているからで過ぎず、顔と芸名の一致しない人々とは交流してはいけないんだと想っている。

 

例外は当代の吾妻家安丸師匠はネット黎明期(1999年頃)にネットでご縁を賜り、現在に至るお付き合いを僭越ながらさせて頂いている。

 

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私は日頃、音頭が嫌いだけど聴きたいし、上手くなりたい、と感じているのは、これらの師匠や先輩方や同僚や後輩方にノンジャンルで支えて頂けているからだと、五十路を過ぎてしみじみ思う。

 

御大もいい加減ながら、

 

『どんどん芸人やったら、手前(自分自身)を売り込めや!。なんでもええさかい、手前が動いてたらワシがNHKとかミューマガとかで取り上げられる事あらへんかったて思うで!』

 

との言葉はなかなか出来はしないながら、芸人としての私の最新の座右の銘と成っている。

 

自分が求めれば、きっとなにかが掴める。

 

オウムの死刑囚は、端から見れば不幸かも知れないが、殉教出来た内の何人かは幸福だったのかも知れないね。

 

とイメージするしか無いだろう。

 

(了)