新 寝たり起きたりすわったり

元々は『猪名川タイムズ』サイトに連載してたエッセイを『はてなダイアリー』で継ぎ、『はてなブログ』に移行させた間賀凜のエッセイ。タイトルはサトウハチロー先生のエッセイ『見たり聞いたり試したり』のパロディ。

第25回 はてなブログのお題『大移動』について

今週のお題「大移動」やて。

 

大移動かぁ…。

 

今から10年前、2014年のゴールデンウィークに自分がいたバンドが岐阜でライブすると言うんで、ママチャリで大阪市旭区から岐阜県岐阜市まで片道17時間掛けて自転車で、エレキベース担いで2日分の食料と水持って言ったことがあるわ。

 

なんで自転車で行く事になったかと言うと、金を貸してくれる予定だった友人は約束の時間にトンズラ。頼みの綱のバンドンドのメンバーはケチ揃いでお金貸してくれなかったのが真相。

 

行きは三代目国道一号線で門真~久御山~宇治~山科~逢坂山~大津~彦根~米原~関ヶ原~大垣~岐阜と国道一号線から途中国道八号線に沿って到着。

 

で、ライブして休憩して、終演するまでいて、終わって速攻で解散。

 

日は落ちてるし、土地勘無いし、道路地図片手に心細いけど、途中、近鉄養老線?の揖斐川だっけの鉄橋で2時間ほど仮眠したり。

 

で、帰りは旧中山道沿いを行くと、ガイドブックにも載ってない様な史跡とか、関ヶ原の古戦場とか、もう行かないかも知れない名所旧跡をじっくり目に焼き付けて、22時間掛けて無事に帰宅。

 

しかも、体重が4~5kgも落ちて喜んだ。

 

まとめると、お金無いけど、水飲み場は探せばすぐに見つかるし、お弁当は大きいの2食持ってったら事足りた。  

 

雪解けシーズンで山は雪が残ってたけど概ね春の陽気だったし、寒くも暑くもなく過ごしやすい(冬装束で行った)。

 

2014年4月29日(土)1:00@大阪市旭区出発。

 

同日、18:50岐阜県岐阜市到着。

 

22:30岐阜市出発

4月30日20:45大阪市旭区到着。

 

ま、このバンドは音楽性も人間としても生き方も思想もあんまり合わなかったね。

 

元メンバーとも会うことないし。

 

それは度外視して、オモロい体験出来たから、ま、いっか。

 

(了)

 

 

第24回 アホが見るアホのケツ

前からの知人友人、ファン(おるのか?)はお馴染みなのだが、実は私、郷土ふるさと大阪府門真市に江戸時代末期頃から歌い続けられてる盆踊り歌の江州音頭という漫才の元芸のひとつの郷土芸能を26年前の30歳(1997年)の秋頃からやっているが、今日(2024年2月18日)の練習で新人の時(1999年の春先)…24年ぶりに入門した二代目桜川唯丸&唯清両師匠(おやじ)と叔父弟子(兄貴)唯玉に

 

「また、一本調子のイキった(自己満足)の音頭に戻ってる。声が張り上がってて、情感も無く一本調子の音頭で耳障りが良くないのに戻ってる!」

 

と言われた。

 

多分、ほか3人の姉弟子らもレギュラーゲスト(ギタリスト/ベーシスト)の李庸恩さんもそう思ってたけど言わなかったんだろう。

 

ハッキリ言って屈辱的に考えてる反面、以前(24年前)の宣言者の3/4人に言われたのだから、芸が後退してしまったのだろうし、この3人に言われたのだから正しいと思うのだ。

 

実は一身上の都合で2004年に退会(破門と思ってたら休会扱いやった)して、11年後、先に退会した叔父弟子に懇願されて固辞したが押し切られて復帰。

 

が、しかし、休会中は唯清師匠のグループで伴奏者兼音楽監督(私はキーボーディスト兼ベーシスト/ギタリストとしてゲスト→入門)してたし、唯丸師匠以外の筆頭弟子の唯由里姉とも、あまり切れることも無く、音楽と音頭で休会中は交流は続けていた。

 

2014年は2日だけ手伝いに行き、翌年、復帰するも3年間、怖くて怖くて音頭は取らずにベースとギターばっかり弾いてた。

 

私が入門した理由は、『楽器演奏者がいないので探している』と言われて呼応。叔父弟子らが耳元で「音頭やれ!音頭やれ!」と囁くのでその気になって入会。

 

会としてもキーボード、エレキベースエレキギターが弾けるので都合も良かっただろう。唯丸師匠と度重なる対外的な軋轢もあり、1999年と2001年の櫓では楽器を演奏しなかった。

 

理由は、唯丸師匠が連れてきた演奏者と音を合わせても上手く演奏出来なかったからだ。中も悪かったし。そのくせ、他の演奏者の兄姉弟子とはスパーンとハマってた。

 

というのも、私は慎重居士で、石橋を叩いて渡るタイプで、音頭取りに復帰したのも、時間合わせで入門以来四半世紀、本ネタの『関取千両幟』も敢えて完成させなかったのは、音頭取りとして、年数ばかり食ってて、身内(師匠らと叔父弟子らと姉弟子ら)にも年数長いので今更聞けない…というのと、自分自身、この郷土の歴史を知るためのキーワードである『江州音頭』に飽きて来た、というのも、私がこの芸能を足踏みしてきた理由である。

 

で、今日、自信満々で音頭取ったけれど、あの入門二年目以来、師匠と叔父弟子に言われたことを二十有余年ぶりに言われて凹んでいる。

 

自己分析すれば理由は簡単。

 

自己満足して

 

「オイラの音頭上手いやろ!オラ!聞かんかい!オラオラ!」

 

という態度が20数年前同様に出てるんだろう。

 

もう、辞めちゃったけど、以前もそう言った姿勢で江州音頭を取ってた兄弟子がいた。可愛がってもらったし、芸人としての姿勢も持ってた立派な兄弟子だったが、結局、彼は先に書いた様な姿勢で『芸』を捉えていたので自滅に近い状況で知らぬ間に退会された。

 

『驕り』を持っていただけなのに…、それを当時の会員全員が分からなかった。否、師匠も叔父たちも

 

「社会経験も豊富な生活者だから気付くだろう」

 

と願っていたが、気がつくことも無くいつしか退会されてた。

 

数年前(2016年頃)に、10数年ぶりに稽古に来た時口演すると、退会した当時のままで、演奏していて気絶しそうになった。

 

俺は元弟弟子だから批判されても良いけど、姉弟子やその兄弟子より芸歴の浅い人に、寄せばいいのにアドバイスまでしてたので、帰り道、餃子の王将でヤケ酒呑んで帰宅したのを覚えている。

 

今、その兄弟子みたいに横柄で音頭に対して失礼な態度になってて、再び、熱が失せかけているが、なんのために11年我慢したのか分からなく、その11年(演奏者としての発見も多かった)が無駄になると思い直す。

 

これは多分、退会した直後以来、こんなに自分の芸が、信じられなくなったのは人生で2度目。多分、それまで結構のらりくらりと避けて来ていた事が、コミックバンド結成以降(芸の修業は他ジャンルで1983年から89年頃まで。ただし音頭では無い)あまり無かった事。

 

しかも、前回は少し書いたが、やはり、唯丸、唯清、唯玉、退会した唯正叔父に1999年(だから楽器を演奏してない)のこと。

 

前回はどうやって克服したのだろうか?

 

今回はどの様に『江州音頭』と向き合って克服出来るんだろうか?

 

原因は『芸に対する驕り』しか無いだろう。

 

その解明に今から少しワクワクしている。

 

やはり、この年齢と芸歴になると、以前の様にのんびりしてる時間もないので、少しだけゆっくり、少しだけ急いで、時として様々な人々の助けを借りて、多くの人々の意見も聴いて解明していこうと思う。

 

(了)

 

 

 

 

第23回 先程見掛けた不思議な夢(2023年12月15日 金曜日)

つい先程、大変不思議な夢を見た。

 

たまたま、私が数年前から裏方として携わってる音楽イベント『枚方宿ジャズストリートの会議(本当は呼ばれない。毎週通えない。方は近くて遠い)』かなにか(夢だけど、枚方に用事で行くことはこの数年来、このことだけなので)で、旧京街道沿いをチャリ🚲で南西の家(大阪市門真市方面)に向かって、今、着てる作業着(普段着・兼寝巻き)のまま向かっていたらば、街道沿いの豪邸の葬儀告別式のバラシをやってる有名葬儀社(名称不明)の一団にすれ違う。

 

最近、トマホーク兄貴(趣味友達にして葬儀師時代の兄弟子)の会社『Tホール』(大阪府守口市/大阪市旭区)も軌道に乗り『準社員(バイト)』に抜擢されたが、軌道に乗ってきたせいか、今年の秋口に行って以来は、とんと、ご無沙汰だし、これまた趣味友でもある11歳年下の兄弟子(社長)と11歳年下の弟弟子(常務、2人は高校の同級生)が運営する古巣の『N社』(大正三年創業)も、実家と家の往復で週に2~3度、真横を通るが、忙しいので遊びに行けてない事が左右したのか、そういう場面に出くわした。

 

で、何かわからないままに、あれよあれよと、夢の中に出てきた老舗葬儀屋の作業着に似た服を着てたので「新人!何を、ボサっとしとんねん!早く動け!」と言われて、20年近くブランクあるのに、撤収を手伝ってて、そつなくこなしてどこからともなく「素人やと聞いてたけど、よく動けてるやん!」と口々に話す葬儀屋社員たちの声が聞こえる。

 

恐らく、そう遠くない枚方斎場(関西外大に隣接している古墳跡の丘陵地にある)にお客様を焼き(火葬)に行ってる短時間で『精進落とし』と『初七日法要』をする。今はこの形態が私が住む地域では主流。

 

親族や縁深い会葬客の方々が『精進落とし』を1度にするのは、遠方から来てる会葬客もいるためで『骨(コツ)あげ(火葬したあとの遺骨を拾う事)』と『初七日法要』もするので、この作業が必要となる。

 

で、別に新人の時みたく「アホ!ボケ!カス!うんこちゃん!イ◎ポ野郎!親しみやすい気配を消せ!」などの罵倒も体罰もなく、自分でも長年のブランクがあるのにサクサクと撤収作業をしていたので驚いた。

 

数名の社員さんと黙々と作業してて「自分(私の事)、どっかの葬儀屋おったんか?」と言われるが、早く帰宅したいので「昔、美術大道具のアルバイトしてました」と答えた。

 

というのも『N社』時代の私の恩師に『元雨上がり決死隊』の宮迫さんの舅(つまり『宮迫の嫁』の実父が私の先生の1人)で、彼の洒脱でダンディーなところから私淑したのだが、私の嘉門さんのボーヤ時代の話を興味深く聴いて下さったり「宮ちゃんより間賀ちゃんのが面白い!」と言ってくれたのは遠い思い出だった。

 

これ、どこの会社入っても、この部分を面白がられてたが、最近ではめんどくさいのであまり、自分から話さなくなってる。

 

作業中盤になって本当は1万円はくれるけど、私はあくまで『モグリ』の『なんちゃって葬儀師』でお金はいらないので、幕の内弁当と、傍らのなぜかタイの尾頭付きがあったのでそれをギャラ代わりに頂いたが、『タイの尾頭付き』が精進落としと無縁なはずの料理が出てたのは、ここのお客様は生前、ご遺族とか周囲の方々に、父の後妻(生前は嘘つきで口はうまかったが、没時は長年帰依していたインチキ宗教にも見放されてた難儀で不憫な人物)みたく忌み嫌われてた『鬼っ子』だったのがうかがい知れる。

 

それを頬張っていたが、『受け』と呼ばれる担当者から電話があり、『あと20分程度で式場に戻る』と連絡が入り、慌てている時に…目が覚めた。

 

私は正直言うと、どの生業も、どの修行も中途半端の未完成だと思う。

 

そういう戒めの意味で、こういう夢を見てしまったのかもしれない…と言うよりも、この10年ぐらい、年に数回しか夢を見なくなった。

 

今夜、大阪は雨が降ってる。

 

多くの魂が宗教にも拠るが『涙雨』。

 

母が、母の父が、父の母が…小さい時や青年期に深くお世話になった方々が…飯塚銀次が…などなど。少なくとも私の身近な人が亡くなった夜は例外無く多少の差はあるがあらかた雨降りだった。

 

生まれた時から亡くなるまで、大勢の人々の助けを借りて生きて来て、人によっての長短はあるが、その今生との別れを惜しむ人々の涙雨なのだ、と、私は葬儀という尊い仕事に携わってからの21年、そう考えて、人々を送り瞑目しながら考える様になった。

 

合掌…礼拝…。

 

(2023/12/15 金曜日 04:04:06記)

第22回 ある知人を悼む(Yくんへの手紙)

前略、Y様

 

あなたが去る4月に亡くなられてたことを、昨晩、今も交流のあるNくんからのメールで知りました。

 

私自身、二十世紀の終わりに、あなたが主催していたグループで、趣味的に活動していた四半世紀前の事が走馬灯のように思い起こされます。

 

あの頃は今みたいに各種SNSも作られていなくて、電話、手紙に次ぐ、コミニュケーションツールとして、パソコン通信(富士通の運営するニフティサーブNECが運営するPC-VAN)が脚光を浴びていた末期、私はあなたと、とある映画に関するフォーラム(サークル)であなたと知り合い、年齢も私が1歳上なのと、同じ関西在住なのと、割とコアな映画の話で盛り上がったのでしょうか!?意気投合して、そのサークルの創立メンバーのひとりとして活動してましたね。訃報を知らせてくれたNくんはここで出会った数歳年下の友人になってくれた1人です。

 

あなたはリーダーとしての資質は私よりもあったと思われます。

 

ただし、コロコロと変わる側近の意見を重視しすぎて、コロコロと変わるあなたの指針に振り回される事が嫌で、私を含む初期メンバーがまず真っ先にあなたの元を離れ、次いでオーディションや面談で募った、メンバーがひとり、次は2人と倍々ゲームみたいに離れ、その都度、元々いたメンバーがいなくなり、入れ替わってしまったのは、あなたの人間としての資質と、あなたの人間としての未成熟さと、あなたの人間的な底の浅さを露呈するものであったと思い起こすのです。

 

あなたの好きだったザ・真心ブラザーズの歌で、『友達や知り合い、恋人は、その都度都度にコロコロと変わる』と言うのがありましたが、本当にあなたは、私の周りでも稀なこういう人で、結局、底の浅さを、サークルの人々の様々な年齢層の人に見透かされ、ひとつのグループが解散すると、今度は解散した理由を知らない新しい自分の支持者を集めては解散する、を繰り返しておられた様子。

 

あなたは反省もしないし、自分を変えようともせず、結成時に流行りだした『Remix』という言葉で巧みに逃げ切り通せたものの、あなたの言葉に振り回された人々が、その都度いて、また、あなたが、さも初めて使ったと言っていた言葉は、実は以前から恒常的に使われていた言葉だと、当時の私や、少し年下の大学生で、そろそろ五十時の声を聞く年齢に達した青年たちは、あなたよりすでに社会経験が豊富だったことを一言付け加えておきましょう。

 

あなたは共に活動していた当時から、私や他の仲間たちの活動を認めず、下に見ていましたね。口では一定の評価を与えてる様で、そのくせ、まったく理解していませんでしたね。否、理解したくても、理解力に乏しかったんですよね。

 

多分、あなたは最初に高みに登っちゃったんで、そうした人たちの気分とか熱意…例えば、私や別の仲間たちが、どのような気持ち…各々が楽しみや熱意を持って表現した企画(ライブや展覧会など)の意味を理解しようとしなかったんですね。

 

あの頃から、もう少し、他人の気持ちを思いやる事が出来て、他人…意見が分かれる人の話を聞く耳を持つことが出来て、自分で考える理解力を持っていたならば、あなたはもっともっと人間力に富み、あなたが思い描いた理想の様に、一流の文筆家や評論家にもなれたかも知れない、と回想するのです。

 

幸い私や他の仲間たちは、あなたに出会う以前から、自分の頭で考え、また、他の仲間たちに支えられて乗り越えて、必死の思いで、変わらず活動しているのです。

 

あなたは、私やあなたの元に集った仲間たちがそうして頑張ってることなんて、ご存知なかったでしょ?。

 

ま、面白い経験はたくさんさせてもらったけれど、あなたとの縁が切れたことは、まあ。なんというか、必然だったんでしょうね。

 

別に離別後に今後、会う事も無い…と思ってたけど、訃報聞いてから、あーいなくなっちゃったんだな、蜜月時代は度々ウチにも泊まりに来たり、遊びに来てくれたり、一緒にいくつかのライブとか一緒に行ったなーとか、思い出します。

 

Yくん、やっと、解き放たれたね。

安らかに…慎んでお悔やみ申し上げます。

 

合掌…礼拝…

 

 

第21回 そうして時代は移ろい滅んでいくものなのだ~安倍晋三事務所閉所ニュースを聴いて想ったこと (2022.12.29 木曜日)

今日(2022/12/29 木曜日)、昨日夕方にLINEで速報配信されていたTBS(東京放送)ニュースサイトの見出しに『故安倍晋三前首相の事務所閉鎖へ』と書かれてあり、この記事を興味深く読んだ。

 

記事をかいつまんで紹介すると、父の安倍晋太郎元外相(1924-91)から引き継いだ事務所だったが、昭恵夫人との間に子供もなく、後継者もいないことから、前首相の痕跡たる三代続いた安倍家から政治家家系は、7月の奈良で起こった晋三の暗殺で潰えたこととなる。

 

安倍家はそもそも初代は晋三の父方の祖父寬(1894-1946)が興し、その遺志を子息である晋太郎が継ぎ、父や祖父が生涯を賭けて守り抜いた平和思想を反古にした様な、真逆に近い歪んだ母方の祖父、岸信介元首相(1896-1987)の政治思想を継承してしまい、日本という国を特権階級だけが、良い思いをする堕落した国家に貶めてしまったのは記憶に新しい。

 

実際に官僚や政治家なら不起訴、庶民ならば有罪という歪んだ判決が、世論を無視してくだされ続けている事例を『安倍総理の一声』で連発し、証拠も揃っている本人及び自民党や、彼の実働養護団体のひとつである日本(大阪)維新の会の、各種議員の度重なる不祥事の被告(各種議員)が、今だに不起訴になっている事実から、彼が生前起こした数々の功罪が検証、立証されなければならないのは、今後の日本という國全体の大いなる反省点で課題であろう事は、明確に察しもつくだろう。

 

思い起こせば、安倍晋三衆議院議員=閣僚入りした時、国民の多くは、父の晋太郎元外相が生涯を賭けて守った平和主義を標榜して、日本を住みよい国にしてくれるだろう、と期待したものだったが、実際は母方の祖父でA級戦犯だったが、アメリカに隷属して死刑を免れた岸信介元首相の標榜した政治路線を今再び継承してしまい、国民の生活を苦しめる事になった。

 

最初に目に見えた施策は、『たばこ価格大幅値上げ』だろう。

 

これを与党政府自民党と国民が許してしまったがばかりに、日本は地獄に一直線へと突き進むことになったのだと、大した学も無い私でも考える。おそらく、これは、その後の安倍政権が連発する失策とその結果から明白なのは、読者の方々もおそらく、そうではないかな?と想ってくださるかもしれない。

 

話は少し横道に逸れるが、以前、行きつけの居酒屋や様々な場所で、政治論議を身の回りの友人や知人と交わすことが自分は大好きで、やはり、同じような仲間がいて、机上の空論があり、様々な主義主張が繰り返されていた。私は40歳ぐらいから、酩酊すると、「こんな世の中、夢も希望もありませんわ…」と語る、年少の部下や同僚、飲み友達に、この様に言われると、心がその度に痛み、二言目には

 

「俺が現在お前らぐらいの年齢だったら、確実に会社辞めて、親類縁者友人たちと縁を切り、大阪以外の縁のない土地に暮らして、身元を隠して忘れた頃に●●を暗殺して、庶民が今より心豊かに暮らして行ける世の中を取り戻す…」

 

というと、誰一人として「またまたぁ…辞めてくださいよ間賀さん、そんな物騒な話はここでは禁物ですよ…」などと茶化してくる人は誰一人としていなかった。

 

自分の周りだけかも知らないが、首相の名前も、この国を動かす政治家の名前もろくに知らない様な、自分よりも立派な学歴を持つ若い人、自分のようにほぼ義務教育を受けて社会に出た若い人、男女、社会経験を関係なくして、だれもが、この意見を否定せずに聴いてくれたのは、まだまだこの日本という国には、この国の未来を真摯に考えてくれているのだと想った。

 

自分の社会に出た時は、まだ、軍隊経験や戦争経験ののあった先輩もたくさんいて、彼らの戦争体験を聞いたり、両親世代の近所の人々から、その人々の個々の戦争体験を聞いて育ったものだが、稀に、自分の子供世代にあたる10~30歳ぐらいの、様々なジャンルの性別関係ない後輩たちに聞くと

 

「あんまり、第二次世界大戦があった事は学校で習うけども、そんなに詳しくは習いません。大学でそういった研究をしてる同級生はいるけども、そういったひとだけじゃないですか?」

 

と、言われるだろう。上は実際に某後輩に言われた答えだが、この国の政策によって、現在、自分たちには振り向けば手近にあった平和教育さえ、今の日本国の施策によってないがしろにされている現実に、私も戦争体験はないものの、恐怖を感じる。

 

現に、隣国から正体不明のミサイルが頻繁に打ち込まれているではないか!。

 

続きを読む

第20回 若い人たちの音楽は熱く、自分は老兵みたいでガッカリしてる話(2020年9月14年 月曜日)

もう四~五年の『三四郎オールナイトニッポン』のリスナーなんだけど、音楽歴五十年、バンド歴41年なのに、今のよく、聴いているのがしゅーじまんこと相田周二の『standby』。

 

とても、良い曲というよりも、自分と組んで作詩をしてくれていた故飯塚銀次の詩の世界にとても似通っていて、飯塚と一緒に聴きたかった逸品だ。

 

それからナツメロパロディーの名手の中村田隆一と組んで活動して、飯塚の葬式以降、会わなくなってしまったが、

 

「もう一度、ゼロから再生する最後の機会なんじゃないだろうか?」

 

などと密かに想っている。

 

一昨年(2018=平成30年)の秋から一年間、あうんさん・すうじぃの紹介で出させていただいている『上町台地ブルースマン』ことささきたかしさん主催の難波之宮跡公園大極殿跡で催される『王様の歌』に出て、自分の至らなさを恥じ、今年に入って、数年ぶりに爪を噛む様な暮らしに図らずも戻ってしまう。

このままで良い訳もなく、ここで共演するミュージシャン全員に熱意の上でも技術的にも負けてると感じて

 

『キャリアだけ古くてなんも無いの』

 

になっている自覚が私を締め付ける。

 

=====

 

さて、私は嘉門タツオさんに付かせて頂いてた頃(1983-89)に、曲を聴いていただき、

 

「もっと情景が浮かぶ曲を書け!。自分の感覚に酔っててはいけない」

 

と言われた。が、我が強いのでそれを改めなかったが、少しずつ本を読んだり浴びるほどのノンジャンルでオッペケペー節から昭和歌謡、パンクロック、ビーバップジャズ、フリージャズなどなどを聴いて改めたりした。

 

 

それから8年後(1997年)に作術は変えないで作り替えた(曲は半分ぐらいは同曲)デモテープ『What's BATAYAMA』を作ったらまさかの好評というより、好きと嫌いが、まっぷたつとなり、二度目の上京の話も出たが、その頃は

 

「すでに大阪で頑張ろか」

 

とか考えてたので遺憾ながらお断りした。

 

 

その後はデモテープらしいデモテープはほぼ作ってない。

 

=====

 

さて、話は横道に逸れたが、軌道を戻そう。

 

このしゅーじまんの『standby』を聴いていると、初めてのバンド『横之内玄造と士農工商』を組んだ12歳から、唯丸会に入るまでの紆余曲折を経た18年間持ち続けていた音楽や表現に対する情熱みたいな感覚を思い出す、素朴な心の詠唱を呼び起こしてくれるのである。

 

これは『王様の歌』で共演した方々の曲を聴いていても同じ感慨を呼び起こしてくれるのである。

 

だから、音頭は欲しないけど、ロックンロール、ジャズ、フォークなどなどの音楽に心揺さぶられるのだ。

 

意外と同じ感覚で大阪江州&河内音頭をされてる師匠方や先生方は多いと想う。

 

わかんないけど。

 

 

ま、そんな感じで心は原点に戻りつつあるのだ。

 

(了)

第19回 追悼 M.S社長(少し前の話を 2020年9月9日 水曜日)

この3月18日水曜日に二年半働いたリサイクル関係の仕事を退職した。

 

35年前、自分が産まれて始めて勤めたホテル跡地の近辺にあり、二年半の間に自分では頑張ったつもりなのに、昇給は無かった。4度ほど仕事中に命の危険にさらされたのに昇給もなかった。生まれて初めて心神耗弱と体調不良を起こして休んだ会社でもあった。

 

しかも、7月下旬から3月に退職して今頃、生まれて初めて失業後の後処理が一気にやってきては困っている。

 

ま、どうにか、微々たる貯金で喰ってた自分も悪いが、離職票やその他諸々の書類一式も申請しないと送って来なかったし、資格手当も残業手当もなく、昨年の10月何度目かの直談判をした時に社長から

 

「あなたの言い値は定年まで出せません。そんなに大口叩くならば、給料の高い所に移り、退職してもらっても構いません!」

 

と、言われてモチベーションが一気にダダ下がった。

 

自分としては倉庫屋と葬儀屋に並ぶ老舗だったのに、家庭的な会社だった割には、一番、金(勤務形態に関する賃金)に関して大雑把でよろしくなく、事後の後処理は

 

『もう退職しはったからウチとは関係おまへん!』

 

という、ある意味老舗で、ある意味ブラック会社だったと想う。

 

アルバイトでも正社員でも金に汚くない会社は信用出来るが、金に汚い会社は信用出来ないし、潰れたり、存在してても大幅に企業規模が縮小されてる事が多い。

 

金にきれいでも人間関係とか、仕事が合わなくて退職する場合もある。

 

===== 

 

ただし、社長は年齢も近く、人間的にはウマの合う人だった。

 

その社長が8月9日 日曜日に脳卒中で数え56歳、満54歳で亡くなられた。

 

その10日ほど前(7月28日)に離職票の事で電話したのが最後の会話だった。 

 

そういえば、8月11日火曜日にCメールを送ったのに、既読が付いてなかった。従来ならば気付けば返事を返してくれるので「オカシイ…」と想ってはいたが…。

 

続きを読む